性転換の歴史

性転換の歴史
  1. 66年 スポルス・サビナ、ローマ帝国の皇妃に。
  2. 218年-222年 ローマ帝国第23代皇帝 ヘリオガバルス
  3. 1644年-1724年 ブルボン王朝において女装を貫いた聖職者
  4. 1728年-1810年 マリー・アントワネットに寵愛された女装スパイ
  5. 1910年 異性装=トランスヴェスタイト
  6. 1923年 トランスセクシャルという言葉の誕生
  7. 1931年 ナチス・ドイツの迫害と共に消されたトランスジェンダー
  8. 1931年 史上初めて、卵巣移植に挑んだ画家
  9. 1941年 プレマリンの誕生
  10. 1941年 ドラァグ・クイーンの誕生
  11. 1951年 世界初の性転換手術に成功した人
  12. 1951年 日本人初の性転換手術
  13. 1952年 クリスティーン・ジョーゲンセン
  14. 1953年 ジョルジュ・ビュルーが「パルク診療所」開設。
  15. 1958年 フランス人初の性転換、コクシネル
  16. 1964年 ブルーボーイ事件
  17. 1966年 トランスジェンダーの反乱
  18. 1967年 イギリスにおいて、性転換手術が合法に。
  19. 1968年 IBMがトランスジェンダーを差別解雇。
  20. 1969年 ストーンウォールの反乱
  21. 1969年 アメリカで最初のSRS手術が行われる
  22. 1970年 エイプリル・アシュリーの結婚無効判定
  23. 1972年 ディヴァイン誕生
  24. 1972年 『時計じかけのオレンジ』の音楽家が性転換手術を。
  25. 1973年 カルーセル麻紀、モロッコで性転換。
  26. 1977-1981年 レニー・リチャーズ、全米オープン女子シングルスに出場。
  27. 1981年 トランスジェンダー初のボンドガール誕生
  28. 1982年 世界のミュージックシーンに現れたトランスジェンダー
  29. 1983年 ヒト免疫不全ウイルス(HIV)が発見される
  30. 1983年 中国で最初の性転換手術が行われる
  31. 1988年 ミスター・レディー旋風
  32. 1989年 スーパー・ジェンダー・ル・ポール誕生
  33. 1991年 ブラジル人初のファッションモデル誕生
  34. 1995年 世界初のトランスジェンダーの国会議員誕生
  35. 1998年 日本でも性転換手術合法化
  36. 1998年 ユーロビジョン・ソング・コンテストで初のトランスジェンダー優勝
  37. 2002年 グウェン・アンバー・ローズ殺人事件
  38. 2004年 ブレンダと呼ばれた少年
  39. 2004年 日本で性転換者の性別変更が可能になる
  40. 2007年 ブラックジャック・和田耕治医師死去
  41. 2007年 ブラジルで性転換手術が無償で。
  42. 2010年 トランスジェンダー初のホワイトハウス閣僚
  43. 2014年 トランスジェンダー初のTIMEの表紙
  44. 2014年 髭を生やしたトランスジェンダー・シンガー
  45. 2015年 男女逆転カップルの子作りが話題に!
  46. 2015年 ケイトリン・ジェンナーの誕生。

66年 スポルス・サビナ、ローマ帝国の皇妃に。

ローマ帝国・ユリウス朝第五代皇帝ネロの第四皇妃にスポルス・サビナがなります。彼は、解放奴隷であり、ネロが誤って殺してしまった最愛の第二皇妃ポッパエア・サビナ(30-65)に似ていたので、性転換手術を行い妃に迎えたのでした。

218年-222年 ローマ帝国第23代皇帝 ヘリオガバルス


ローマ帝国・セウェルス朝の復権を名目として、わずか14歳で皇帝に即位した美少年ヘリオガバルス。ローマの歴代暴君達の悪行すらも生温く感じるほどの、ローマ帝国史上最悪の皇帝として記憶されている一方で、トランスセクシャルの元祖ともいえます。

1644年-1724年 ブルボン王朝において女装を貫いた聖職者


パリで生まれたアベ・ド・ショワジ(1644-1724)は、ルイ14世時代のフランスで、男性が女装して過ごすことが許されなかった時代に、女装し、その絶世の美貌により、宮廷において話題になりました。

1728年-1810年 マリー・アントワネットに寵愛された女装スパイ


シュヴァリエ・デオンは、生涯の前半を男性として過ごし、後半を女性として生きたフランスのスパイ。1755年、ルイ15世の私設スパイ機関『スクレ・ドゥ・ロワ』に加わりました、マリー・アントワネットからも寵愛され、ファッション大臣のローズ・ベルタンに、女性の衣装一式をデザインさせたりもしました。

1910年 異性装=トランスヴェスタイト

ハリー・ベンジャミン(1885-1986)は、1907年にマグヌス・ヒルシュフェルト博士(1868-1935)に初めて会いました。ベンジャミンは性転換についてのリサーチをしており、この二人が、やがてこの分野のパイオニアになったのです。そして、1910年マグヌスは〝トランスヴェスタイト〟という造語を作りました。

1923年 トランスセクシャルという言葉の誕生

マグヌス・ヒルシュフェルト博士は、トランスヴェスタイトとはまた違った、「出生時の外性器(身体)の性別とは反対の性同一性を持つ現象」をトランスセクシャルと命名しました。

1931年 ナチス・ドイツの迫害と共に消されたトランスジェンダー


世界で初めて、完全な性転換手術を受けた人間の名をドーラ・リヒター(1881-)と言います。1922年にドイツにて、去勢手術を受け、女性ホルモンの投与を受けます。そして、1931年に性転換手術を受けるも、その後の経過は、ナチス・ドイツの台頭により、カルテが焼却され、本人の行方と共に知れず。

1931年 史上初めて、卵巣移植に挑んだ画家


オランダ人の画家リリー・エルベ(1882-1931)は、1930年に5回にわたる性転換手術(卵巣移植手術を含む)を行い、結果的に失敗して死亡しました。

1941年 プレマリンの誕生

卵胞ホルモン「エストロゲン」を身体に補充するエストロゲン製剤・プレマリンが1941年からカナダで使用されることになる(翌年、アメリカでも)。日本での使用は1964年から可能になりました。

1941年 ドラァグ・クイーンの誕生

この年、初めてドラァグ・クイーンという言葉が現れました。もっとも1870年より演劇界やゲイ・コミュニティの間では隠語としてドラァグという言葉は使われていました。そして、1941年に、ドラァグ・クイーンという言葉が初めて公式に使われたのです。その意味は、「ドレスアップした女性」という意味です。

1951年 世界初の性転換手術に成功した人


イギリス空軍中尉でありスピットファイアーの戦闘機乗りだったロバータ・カウエル(コーウェル)(1918-2011、英国貴族の生まれ、1941年に結婚していたが、戦時中捕虜になる)は、1951年に、〝整形外科の父〟サー・ハロルド・ギリーズ医師と米国外科医のラルフ・ミラード医師の執刀で造膣手術を行い、英国で初めて性転換をした人になりました。

1951年 日本人初の性転換手術


2018年現在において確認できる、日本での最初の性転換者は、1951年、永井明子(1924~?)です。永井は、1924年東京に生まれる。1950年に、進駐軍の東京陸軍病院に皿洗いの雑役夫として就職し、そこで同僚の男性と恋愛し、性転換を渇望することになる。東大精神科に半年通い「心理的には治療不可能」という診断を得る。同年8月15日陰茎癌の名目で精巣と陰茎の除去手術を受ける。退院後、女性ホルモンの投与と、女装を本格化させ、進駐軍関係者のハウスメイドになる。

1951年4月、日本医科大学付属病院の石川正臣教授(1891-1987)の執刀により造膣手術を受ける(約60万円)。すでに陰茎除去済みのため陰茎反転法が出来ず、人工膣の狭窄に悩まされる。その後、豊胸手術を受け、53年以降銀座のキャバレー「銀巴里」で歌手になり、57年ごろまで全国各地を巡業するも、歌手としては成功せず。以後、消息不明。

1952年 クリスティーン・ジョーゲンセン


恐らく1950年代において世界で最も有名な性転換者は、クリスティーン・ジョーゲンセン(1926-1989でしょう。彼女こそ、性転換手術をした初めてのアメリカ人です。1952年にデンマークのコペンハーゲンにおいて性転換を果たします。そして、12月1日、ニューヨーク・デイリー・ニュースのヘッドラインにて〝元GIがブロンド美女になる!〟のニュースにより一大センセーションを巻き起こします。

1953年 ジョルジュ・ビュルーが「パルク診療所」開設。


この男がいたからこそ、世界中の性同一性障害の人々は、モロッコのカサブランカに殺到したのでした。1953年、陰茎反転法を確立したフランス人ジョルジュ・ビュルー博士(1910-1987)が「パルク診療所」を開設しました。1973年にスタンフォード大学医学部にて、陰茎反転法の術法を公開し、以後、アメリカにおいても主流の術法となる。

1958年 フランス人初の性転換、コクシネル


フランス人として初めて性転換手術を受けた人。コクシネル(1931-2006)は、1953年パリのキャバレーマダム・アルトゥールでデビューし、「ブリジッド・バルドーに似た女装ダンサー」として人気を博しました。そして、パリの花形キャバレー「カルーセル」(1926年に創業したキャバレーの老舗)に移籍します。1955年ごろ、彼女は念願のシリコンの豊胸手術を受けました。

そして、1958年にモロッコのパルク診療所にて、ジョルジュ・ビュルー博士の執刀を受け、性転換を果たしました。彼女の名声により、モロッコは、1980年代まで性転換手術のメッカになりました。1960年にフランス人のジャーナリスト・フランソワ・ボンネと、合法的に(フランス政府が初めて認めたケース)、フランスのローマ・カソリック教会にて結婚しました。1962年に二人は離婚し、63年にパラグアイ人のダンサー・マリオ・コスタと再婚しました(1977年、彼の死まで)。更にコクシネルは、1996年に再婚します。

1964年 ブルーボーイ事件


1963年にパリのカルーゼル・ショー劇が来日した時から、性転換をした元男性の女性ショーダンサーのことを「ブルーボーイ」と呼ぶようになりました。1964年に東京の青木正雄医師が、3人の男性(男娼)に性転換手術をおこなったことに対して、「優生保護法違反」の名目で摘発されました。

この摘発は、性転換して女性になった街娼を売春防止法で取り締まることができないため、警察が性転換手術自体が出来ないようにしようとの目論見からでした。1969年に裁判は終了し、性転換手術自体は合法であるとするが、カルテの不備により有罪としました。以後、1998年の、埼玉医科大学の性転換手術まで公式に日本で手術を行える場所はなくなったのでした。

1966年 トランスジェンダーの反乱


1966年8月、サンフランシスコのテンダーロイン地区(全米でも犯罪率が高く、路上売春の多い地区)の24時間営業のコンプトン・カフェテリアで、騒動を起こし通報されたトランスジェンダーを逮捕しようとした警官の顔にコーヒーをかけたことから騒動は始まる。やがて、食器や家具が飛び交い、レストランの窓ガラスが割られた。騒動が店外にも及んだため警官は応援を呼ぶが、パトカーのガラスは全て割られ、周辺のニューススタンドは放火された。

当時、異性装は非合法でした。どの新聞にも報道されなかったこのコンプトンズ・カフェテリアの反乱によって、トランスジェンダー運動の幕が開けたのでした。

1967年 イギリスにおいて、性転換手術が合法に。

英国法が、性転換手術を認める。さらに1969年にはドイツにおいても認められ、1971年には、フランスで初めての性転換手術がレオン・ペレル博士により行われる。

1968年 IBMがトランスジェンダーを差別解雇。


リン・コンウェイ(1938-)は、1968年にIBMから突然解雇されました。彼女は優秀なシステムデザイナーとして開発分野で働いていましたが、会社に性別変更手術を受けると申し出たからでした(同僚や上司は理解を示していたが、取締役会で、面談なしで一方的に解雇された)。

子供の頃から女性になりたいと願っていたのですが、マサチューセッツ工科大学(MIT)からコロンビア大学を経て、IBMに入社し、結婚もし、二子も授かっていました。しかし、1957年から58年にかけて、女性になりたい願いを断ち切れず、性転換を試みました。しかし、当時、アメリカにおいてその技術はありませんでした。女性になれなければ、死を選ぼうとしてた1966年にハリー・ベンジャミン博士と出会い、もう一度性転換手術を行う決意をしました。

解雇後、全てを失いました(妻にはそれ以前に離別されていた)。そして、メキシコで性転換手術を受け、ひっそりと暮らすことにしました。何度も面接を落とされた果てに、小さな会社のプログラマーの職を得ました。その後出版した、カーバー・ミード氏との共著『超LSIシステム入門』(1981年、チップ・デザインのテキストブックになる)などでどん底から頂点に駆け上がり、名声を得ました。カリスマ的なプロジェクト・リーダーとして、活躍し、1985年にはミシガン大学の教授になります。1998年に退職するまで、世間へのカミングアウトは出来ませんでした。退職後、トランスジェンダーの権利獲得の活動家になります。

私生活においては、1987年にエンジニアの夫と出会い、2002年に結婚しました。

1969年 ストーンウォールの反乱



1969年6月28日夜中に、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」において、居合わせたゲイ及びトランスジェンダーたちが、踏み込み捜査に来た警察に対して、初めて立ち向かい暴動となった事件。史上最大級のゲイ及びトランスジェンダーによる暴動。この事件をきっかけに、アメリカでのLGBTの権利獲得運動に火がつきました。

1969年当時、アメリカに住む同性愛者たちは、ソドミー法(同性間性交渉を禁止する法律。イリノイ州以外全州において実施)によって虐げられていました。暴動の口火を切ったのはラテン系トランスジェンダーのシルビア・リベラ(1951-2002)が投げたボトルと言われている。

1970年6月、反乱一周年を記念して、5000人以上が、グリニッジ・ヴィレッジからセントラル・パークまで行進した。これがニューヨーク最初のLGBTプライドパレードです。ゲイの解放運動により、1971年コネチカット州がソドミー法を撤廃し、この頃から、著名人たちのカミングアウトもはじまりました。2003年合衆国最高裁がソドミー法無効の判決を下す。

1969年 アメリカで最初のSRS手術が行われる

スタンリー・ビーバー博士(1923-2006)により、アメリカ史上初のSRS手術が行われました。1972年、米国医学会は性転換願望の治療法として性転換手術を容認した。

1970年 エイプリル・アシュリーの結婚無効判定


1970年に、英国で、エイプリル・アシュレー(1935-)の結婚が、無効と判定されました。彼女は、性転換後、ヴォーグ誌などでファッション・モデルとして活躍しました(デヴィッド・ベイリーなどに撮影される)。

1972年 ディヴァイン誕生


ジョン・ウォーターズ監督が、「世界で一番下品な人間」の座を争うという至上最低の悪趣味映画を作りました。その主役として現れたのが、巨漢のドラァグ・クイーンであるディヴァイン(1945-1988)です。ホンモノの犬の糞を食べるラスト・シーンが、世界中を震撼させ、トランスジェンダーの偏見を助長する役割を果たしました。

1980年代には歌手としても活躍したが、1988年睡眠中の心臓発作にて死去。結果的には、美しいばかりではないトランスジェンダーの活躍の場を広げる先駆者となったのです。

1972年 『時計じかけのオレンジ』の音楽家が性転換手術を。


ウェンディ・カルロス(1939-)は、コロンビア大学で作曲の修士号を取得し、1968年最初のアルバム「スウィッチト・オン・バッハ」を発表。この作品はシンセサイザーによるアルバムで初のミリオンセラーヒットを記録し、後のテクノ・ポップやディスコ・ミュージックが生まれるきっかけとなりました(グラミー賞の3部門を受賞)。

1968年はじめからホルモン療法を開始し、72年5月、性転換手術を行う。また、スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』(1971年)と『シャイニング』(1980年)、そして『トロン』(1982年)の音楽を担当した。

1973年 カルーセル麻紀、モロッコで性転換。


1942年に北海道釧路生まれ、15歳で家出し、札幌のゲイバー、青森のショーパブを経て、大阪の『カルーゼル』で麻紀として働く。札幌時代に19歳で去勢手術を受け、1973年にモロッコに渡り、ジョルジュ・ビュルー医師より性転換手術を受ける。25歳の時、放送作家新野新によりカルーセル麻紀の名を命名され、芸能界デビューする。2004年10月の性同一性障害者特例法施行を受けて女性になる。

1977-1981年 レニー・リチャーズ、全米オープン女子シングルスに出場。


レニー・リチャーズは、整形外科医の父親と、女性として最初の精神科医で、コロンビア大学教授になる母親の間に1934年生まれた。イェール大学在籍中は男性のテニスチームのキャプテンをしていました。この時代から女装しており、性別の不一致に対する、欝病と自殺願望の中、女性ホルモン治療を開始しました。そして、60年代半ばに女装をしてヨーロッパ旅行し、モロッコのパルク診療所を訪れ、性転換に対する願望を高めました。20代の頃の男子選手時代の全米オープンは、2回戦進出が最高記録でした。

1970年、ファッション・モデルと結婚し、72年一男をもうけるも、75年に離婚し、同年41歳の時に性転換手術を受けて女性になり、76年に全米オープン女子の試合に出ることは認められなかったが、翌年、ニューヨーク最高裁判所の判決により、女子選手レニー・リチャーズとして全米オープンに出場した(この裁判の勝利により、他の競技においてもトランスジェンダーが女性選手として活動を続ける道が開かれた)。1977年から1981年まで5年間、全米オープン女子シングルスに出場し3回戦出場が最高記録となった。47歳で引退し、マルチナ・ナブラチロワのコーチも務める。

1981年 トランスジェンダー初のボンドガール誕生


イギリス生まれのキャロライン・コッシー(別名:チューラ、1954-)は、『007ユア・アイズ・オンリー』のボンドガールに選ばれ、トランスジェンダーとして初めて『PLAYBOY』誌のグラビアを飾ります。しかし、82年公開直前に、「ボンドガールは少年だった」とタブロイド紙で暴露されます。

少年時代のコッシーはいじめに苦しみ、姉パムだけが、唯一の友達でした。15歳で中退し、衣服店、肉屋の見習いとして働き、16歳でロンドンに移り住み、様々な低賃金の仕事をこなしながら、17歳から女性ホルモンの投与を始めました。そして、女性としてロンドンのナイトクラブでショーガールの仕事を始め、豊胸手術を行い、パリのショーガールを経て、ローマのトップレス・ダンサーになりました。

1974年12月31日にロンドンのチャリング・クロス・ホスピタルで性転換手術をしました。以後、女性としてモデル活動を行い、過去を隠して働き、チューラーという名で、オーストラリア版ヴォーグやハーパースバザーなどの雑誌に登場しました。1982年の暴露事件後、彼女は女性としての性別獲得のために活動し、1989年5月欧州人権裁判所により女性として認められ結婚します。しかし、再び、タブロイド紙に取り上げられ、夫の家族の猛反対に合い、結婚は無効になります。

更に追い討ちを掛けるように、1990年9月、イギリス政府の再審理の請求を受けて、欧州人権裁判所は判決を覆しました。後に2004年7月1日に成立した「ジェンダー公認法」により、イギリス出身の性転換者は法的にも女性であると保障された。1991年9月号に『PLAYBOY』誌のグラビアを再び飾る。92年に、カナダ人の男性と再婚しました。

1982年 世界のミュージックシーンに現れたトランスジェンダー


1982年10月『君は完璧さ』という曲が全英No.1になります。ボーイ・ジョージ(1961-)率いるカルチャー・クラブの登場です。その同性さえも魅了する美しくも奇抜な女装と、ソウルフルな歌声で一瞬にして世界中を虜にし、83年『カーマ・カメレオン』にて全米・全英No.1という奇跡を起こします。

カルチャー・クラブの登場により、男性が女性的なメイクアップを施す、ニューロマンティックと呼ばれる音楽ジャンルが形成されていきます。86年にボーイ・ジョージのドラッグ事件によりグループは活動停止になります。2014年再結成され、アメリカツアーが開催されました。

1983年 ヒト免疫不全ウイルス(HIV)が発見される

1981年に、アメリカで、免疫機能を破壊する新しい病気が男性の同性愛者の間で流行していると報じられます。WHO(世界保健機関)がHIV感染者、エイズ患者の統計開始。世界の累積患者数381人と発表。1982年、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)がこの奇病をAIDSと命名する。1983年、フランスのパスツール研究所にてHIVが発見され、AIDSの原因だと特定される。

1983年 中国で最初の性転換手術が行われる


1983年1月10日に、北京医科大学にて、機密扱いで、中国初の性転換手術が行われました。張克莎(チャン・ケシャ)は、1962年に遼寧省の省都・大連市に人民解放軍の幹部の息子として生まれました。

1988年 ミスター・レディー旋風

フジテレビの「笑っていいとも」において、1988年10月から1989年9月にかけて「ミスター・レディー」のコーナーが50回放映されました。矢木沢まり、朝川ひかるといった有名人を輩出し、トランスジェンダーの日本における知名度を一瞬にして押し上げました。

1989年 スーパー・ジェンダー・ル・ポール誕生



1989年にル・ポールというドラァグ・クイーンが、初めて世に現れました。B-52’sの『ラブ・シャック』(全米No.3)のMTVの中でです。1960年11月17日にカリフォルニア州サンディエゴに生まれたル・ポールは、幼少期からシュプリームスに憧れ、姉のドレスを着るような少年でした。1987年、ニューヨークでドラァグ・クイーンとしての活躍を初めこのMTVに出演する。

1992年シングル『スーパーモデル』をリリースし、ビルボード誌のダンス・チャートNo.2に輝き、スターになる。1994年エルトン・ジョンのデュエット・ソング・アルバム『デュエット・ソングス (Duets)』に参加し、「恋のデュエット」は全英No.7を記録する。95年MACとモデル契約を交わす。2009年より『ル・ポールのドラァグ・レース』が放映され、人気番組となる。

1991年 ブラジル人初のファッションモデル誕生


1991年に、ロバータ・クローズ(1964ー)は、南米出身のトランスジェンダーとして初めてティエリー・ミュグレー、ギ・ラロッシュ、ジャン=ポール・ゴルチエのパリコレのファッション・ショーに出演します。

1995年 世界初のトランスジェンダーの国会議員誕生


ジョージナ・ベイアー(1957-)は、ニュージーランドのウェリントンに生まれました。16歳で中退し、女優になる夢を見ながら、シドニーのナイトクラブにトランスジェンダーとして勤め、売春を行い、ストリップ劇場でもストリッパーとして働きました。この時期、4人の男性にレイプされました。1984年に性転換手術を受けました。

1995年にウェリントンのカータートン市長選挙に当選し、2000年まで職務を務めた(世界初のトランスジェンダーの市長に)。1999年11月27日より2007年2月14日までニュージーランド議会の議員を務めました。2013年慢性腎臓病により闘病生活を送っています。

1998年 日本でも性転換手術合法化

埼玉医科大は、1998年10月16日にブルーボーイ事件以来約30年ぶりの合法的な性転換手術として、原科孝雄教授(1939-)が日本初のFTMの手術を行う。ついでMTFの手術も実施し後に多数の手術を手がける。そしてこれを機会に、岡山大学、関西医科大学など、多数の大学病院やいくつかの民間病院が去勢手術や性転換手術を行うようになった。

原科教授は、1965年に慶應義塾大学医学部を卒業し、1973年にマイクロサージャリーの研究のため渡米し留学。1985年、交通事故で外性器を失った男性に、マイクロサージャリーの技術を用いて再建した。1987年から2007年にかけて埼玉医科大学総合医療センター形成外科教授を勤める。

1998年 ユーロビジョン・ソング・コンテストで初のトランスジェンダー優勝



ダナ・インターナショナル(1972-)がイスラエル代表として1998年のユーロビジョン・ソング・コンテストで「Diva」を歌い優勝しました。彼女はイエメンとルーマニアのユダヤ人の移民の子としてテルアビブの貧しい家庭に生まれました。8歳の時に、オフラ・ハザがユーロビジョンで歌う姿を見て、女性として歌手になることを夢見ました。

母親がダナの歌のレッスンのために昼夜問わず働いてくれました。13歳で回りにカミングアウトします。そして、ステージに立つことになります。ダナとは、彼女の子供時代の親友で自動車事故で死んだダニエルから取った名前です。90年にドラァグ・クイーンとして歌手デビューします。1993年にロンドンで性転換手術を受け女性になりました。1994年に発表したアルバムがイスラエルで大ヒットします。

2011年にもユーロビジョンに出演しています。そして、今では、イスラエルを代表する国民的シンガーに君臨しています。

2002年 グウェン・アンバー・ローズ殺人事件


2002年10月4日、サンフランシスコ郊外ニューアークで17歳のトランスジェンダーのグウェン・アンバー・ローズ・アラウジョ(1985-2002)が、性交渉の後、男性であることにより、4人の20代の男性により殺害された。彼女は、当時ホルモン治療のみしていました。2002年の夏ごろから関係を持つようになり、生理だと主張し、アナルで行為に及んでいました。そして、山に埋めたのです。

3人に対する裁判は、お互いに非難し合う醜い裁判になりました。2016年までにトランスジェンダーに対するヘイトクライムによる殺人事件は26件に上っています。2人には12年の実刑となりました。そして、もう1人は6年の刑となりました。

2004年 ブレンダと呼ばれた少年


1965年8月22日にカナダで生まれたデイヴィッド・ライマーは一卵性双生児の兄として生まれました。8ヶ月の時の包茎手術のミスにより、陰茎の大部分は焼かれました。両親は、性科学の権威であるジョン・マネー医師に相談し、「ブルースを女性として育てることがブルースの将来のためになる」と説得した。そして、ブルースは1歳10ヶ月の時に陰茎や睾丸を去勢された。そして、女性としての名前ブレンダを与えられ、女性として育てられた。

まったく同じDNAを持つ双子の男子を、(性は生物学的に決まるものではなく、環境によって作られるものである)生活環境により男女別々に育てることが出来るかというマネーの実験台にされたのでした。しかし、ブレンダ自身は、自分のことを女子と考えなかった。その異常な環境により母親は自殺未遂を図るまで追い詰められた。14歳になったブレンダは、真実を聞かされ、男性に戻る決心をする。1990年にジェーンという女性と結婚する。2000年に『ブレンダと呼ばれた少年』が出版された。2004年5月、ジェーンから離婚を持ち掛けられ、ショットガンにより自殺した。

2004年 日本で性転換者の性別変更が可能になる

ついに日本で「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(通称・特例法)」が施行され、厳しい条件ながらも、性転換をした人について戸籍上の性別を変更することが可能になった。ただし、20歳以上で、婚姻をしていないこと。現に子がいないこと。生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

2007年 ブラックジャック・和田耕治医師死去

和田耕治医師(1954-2007)は、大阪北区の美容・形成外科「わだ形成クリニック」の院長を務め1997年5月に日本精神神経学会が「性同一性障害の診断と治療に関する指針」を策定した後も、ガイドラインに束縛されることなく、患者の希望に沿い性転換(性別適合)手術を行った。その手術数は、ガイドラインに則して国内の医療機関で行われた手術数をはるかに上回り、累計で数百件と推定される。

群馬大学医学部を卒業後、東京警察病院を経て大手美容クリニックを経た後、1996年に大阪で開業はるな愛の性転換手術が第一号の手術だった。2007年に、病室で不眠症による過労死で死去。

2007年 ブラジルで性転換手術が無償で。

イランでは、1980年代中頃以降、法的な性別の変更は認められ、性別適合手術はイラン政府により同国の当事者に無償で提供されている。ブラジルでは2007年より、キューバでは2008年より、北欧諸国同様に、性別適合手術が無償で提供される。

2010年 トランスジェンダー初のホワイトハウス閣僚


2010年1月4日、バラク・オバマ米大統領が、トランスジェンダーのアマンダ・シンプソン(1961-)を商務省のシニア・テクニカル・アドバイザーに指名。2011年7月にペンタゴンで働くことになり、2017年1月ペンタゴンを離れる。彼女は、元テスト・パイロットでもあります。

2014年 トランスジェンダー初のTIMEの表紙


アメリカの女優、テレビスター、テレビプロデューサーのラーバン・コックスは、2014年9月にトランスジェンダーとして初めてTIMEの表紙を飾った。

2014年 髭を生やしたトランスジェンダー・シンガー



1988年、オーストリアに生まれたドラァグ・クイーン・シンガー・コンチータ・ヴルストが、2014年5月ユーロビジョン・ソング・コンテストにてオーストリア代表として優勝しました。

2015年 男女逆転カップルの子作りが話題に!


エクアドル初のトランスジェンダー国会議員ダイアン・ロドリゲス(1982-)は、女性から男性になったフェルナンド・マチャドと結婚しました。そして、2015年に妊娠を発表し話題になりました。

2015年 ケイトリン・ジェンナーの誕生。


1976年のモントリオールオリンピックの陸上男子十種競技金メダリストで、女優キム・カーダシアンの義父ブルース・ジェンナー(1949-)が、トランスジェンダーであることをカミングアウトし、ケイトリン・ジェンナーとなりました。

1972年に結婚し、2男を授かるも、1980年離婚。81年に再婚するも83年離婚し、クリス・ジェンナーと再婚し、ケンダル・ジェンナーとカイリー・ジェンナーを授かる。2013年にクリスと離婚し、今回のカミングアウトに。ヴァニティ・フェアー誌2015年7月号に、ケイトリン・ジェンナーとして表紙を飾る。9月25日性別変更と改名を認める。

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